地震と丹前とポリタンク

「ただいま、っと」
部屋の隅に持ってきた荷物をおろして、千里はほっと息をついた。栃木県宇都宮市に住んでいる実家の家族に何事もないことは、メールと電話のやり取りで確認が取れていた。それでも、実際に会って、目に見るのとでは安心感の度合いが違った。いつも通りの光景が広がっている部屋に、千里は涙が出そうだった。
東北太平洋沖地震と名付けられた大震災。実際に揺れたとき東京にいた千里は、東北の避難所で震えているような避難民ではない。それでも、地震の揺れで船酔いのような症状が出る地震酔いになったし、その後、携帯電話の災害用伝言板で「会社の避難所にいる、誰とも連絡が取れない!」と、混乱した様子の父の書き込みを確認したときには、胸のつぶれるような思いをした。それから家族全員の無事の確認取れるまでには4、5時間の時間がかかり、東北に住む親戚一同の無事が確認できるまでには3日を要した。
震源地から遠いとはいえ、東京でも余震は続いていた。最初の揺れが大きかっただけに、小さな余震が大きなストレスになった。地震当日、都心から3時間かけて歩いて自宅へ帰り、足は棒のようになった。くたくたに疲れていたにも関わらず、緊張と心配と続く余震に明け方まで眠ることができなかった。
眠れなかったのは、当日だけではない。数日たっても軽い余震は続いていたし、横になることで震度1程度の小さな揺れも体が敏感に感じ取り、寝付くことができない。眠ったら眠ったで、4時間程度で目が覚めてしまう。起きたら、また寝付けなかった。眠れない夜が続き、そのうち、向かいの道路を車が通る振動や、風でかすかに古い部屋が揺れるのも地震のように感じられる。気丈に振舞ってはいたが、千里の精神はもう限界だった。
そんな折に出た、会社の営業休止。東京電力の輪番停電の影響による鉄道の運休。千里のように精神的にダメージを受けて出社できない社員も多かったらしい。これ幸いと、いつもよりも極端に本数の少ない宇都宮線に飛び乗って、千里は実家に帰ってきた。
いつも通り元気に生活している家族の姿を見て千里は地震発生からこっち、やっと人心地ついた気分だった。
「あれ、これ、なんだっけ……? たん、タンゼン?」
かつて千里が使っていた勉強机が置いてある部屋に見慣れない寝具を見つけて首をかしげた。千里の机は今は父が使っており、部屋も父が寝室として使っている。部屋の隅にはいつも、畳んだ布団が寄せてあった。
その布団の上に、着物の形をした寝具が畳んであった。半纏(はんてん)のように綿の入った暖かそうなつくりで、半纏と違って足元までの長さがある。パジャマの上に着るものではなく、寝るときにタオルケットと同じように掛け布団との間にかけて使うものだ。何年も前に北海道の祖母の家で使った覚えがある。
「丹前、な」
千里の後ろから部屋を覗いた父、辰夫が発音を訂正する。
「どうしたの、これ? 買ったの?」
振り返って問いかける千里に辰夫は首を横に振った。
「前からあったぞ」
「……そうなの?」
「ああ」
「ふーん……」
自宅で見た覚えなんて一度もなかったけれども、千里はそれで納得することにした。色々なものが、使わないまま埋もれている家だった。なにかの気まぐれで、そんな荷物の一つを引っ張り出してきたのだろう。
荷物を置いた千里はリビングに移動した。地デジ化に向けてテレビが新しい、薄型の大きいものに変わっている。対面式キッチンのシンクの脇に、懐かしい白い20リットルサイズのポリタンクが出してあった。半分くらい水が入っている。数年前、父がアウトドアに凝っていた頃、よくキャンプで使っていたポリタンクだった。
そういえば、地震当日、宇都宮は断水したが、「飲み水程度は確保した」とメールが入っていた。このタンクを使ったのだろう。それにしても、狭いキッチンに40センチ四方ほどもあるポリタンクがあるのは圧巻だった。
「どしたの、これ。出してきたの?」
「違うの! 落ちてきたのよ!」
千里の疑問の言葉に母の美里は大げさに首を横に振る。千里は驚くべきなのか、呆れるべきのなのか、よくわからないまま声を上げた。
「落ちてきたぁ?」
「そうなのよ! これと、あと丹前の箱と!」
楽しそうに身振り手振りを交えて説明し出す美里に、千里はずっと入りっぱなしだった肩の力が抜けていくのを感じた。いつもと同じ、明るい母だった。
リビングの座布団に座り、千里はキッチンの方を向いて美里の話を聴く体制をつくる。
「ほかにも同じようなダンボールはいくつもあるはずなのに、なんでか、落ちてきたのはこの二つだけなのよ!」
千里の家は決して狭くはないが、本棚や箪笥の上にダンボールに入った衣類や食器などが置いてある。中には引っ越した時のまま封を開けてないものも少なくない。
「おかしいでしょう。隣に置いてあった宝飾品が入ったダンボールの方が軽いはずなのに、それは落ちてこなかったの。なんでか、丹前なのよ!」
明るい美里の話し声につられて千里もだんだんと楽しい気分になってくる。いつもと同じ。変わらない家族。宇都宮でも余震は続くだろう。それどころか、震源地に近いのだから、東京より揺れは酷いかもしれない。それでも、一人暮らしの木造アパートの部屋に一人っきりで縮こまっているよりも、ずっとずっと希望が持てた。
「今までもね、地震の時にものが落ちてくることはあったのよ。邪魔だなぁ、と思ってたんだけどねぇ。後から考えてみると、『ああ、そういえばあの時に落ちてきたものの中に必要なものがあったなぁ』ってことが、今まで何回もあったのよ。だから、今回は開けてみたの。そうしたら丹前と、あとはポリタンクでしょう? だから、『これは使えってことか』ってね!」
夕食の準備をしながら楽しそうに話す美里を見ながら、千里はくすくすと笑みを漏らした。久しぶりに心から自然に笑った気がした。
「そういえば、廊下に置いてある漫画も一冊も落ちなかったわ」
「それはやっぱりさ、」
笑みを浮かべながら千里は自分の考えを披露する。千里の持論はこうだ。

地震で部屋が揺れていたとき。
漫画の棚や、アクセサリーのダンボールのところでは、ご先祖様の霊が必死で荷物を押さえていたのだ。丁度、こんな感じに。
祖先A「ほら、そっちちゃんと押さえて! 落とすなよ」
祖先B「この箱、重い……」
一方、丹前の箱のところでは、こんなやり取りをしていたに違いない。
祖先C「おい、この箱重くて落ちないぞ!」
祖先D「馬鹿だねぇ、こういうのは揺れに合わせて押すんだよ! ほら、あんた、ちょっと貸してみな!」

「ね、きっとお祖父ちゃんとか、ご先祖様とかが、守ってくれてるんだよ」
身振り手振りも交えて話しながら千里は、自分で話しているその光景を想像して声を上げて笑った。母子の笑い声が部屋の中に明るく響く。
「なに、なんかあったの?」
リビングに出てきた妹の美月が、爆笑している姉と母の様子に首をかしげる。
「丹前とポリタンクが落ちてきた話」
「ああ、その話ね」
地震の日から、母に何度も同じ話をされてきたのだろう、美月は肩をすくめると座布団に座って持ってきた漫画を読み始める。
「さあ、晩御飯の用意をして! 美月も! テーブル拭いてよ!」
「はーい」
返事をして立ち上がった千里は、テーブル拭きをもってキッチンへと洗いに向かう。今日の夜は、きっと気持ちよく深い眠りにつけるだろう。
自分の中に「日常」が戻ってきた。
今まで意識せずとも当たり前にあったもの。これから先も、きっと意識に上ることなく当たり前にあり続けるもの。
白いテーブル拭き用の布巾を流水で洗いながら、千里は家族を守ってくれたご先祖様たちを感謝の念とともに思い浮かべた。


実話です(笑)。

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