『好き』には、なるもの。

 『恋』は、落ちるもの。

 では、『愛』は?

 

 …………それは、芽生えるもの。

妻と夫と、父と母

又は、語られなかった彼女の話



 私が初めてルシウス・マルフォイと出会ったのは、まだ私達が幼い頃だ。純血同士の付き合いの中で、その出会いには何ら不審な点はなかった。その後はホグワーツでも同じスリザリン寮生になった。

 だから、卒業してしばらくたった頃、両親から持ちかけられた見合いの話にも何ら不自然な点はなかった。相手が、死食い人であっても、いや、それでこそ自分にもっともふさわしい相手だとさえ思った。

 むしろ闇がその濃さを急激に増していく中で、闇の属性を持つ家系同士のそれは当然の帰結のようにも思われた。純血の、それも古くから続く家系に生まれた時点で愛や恋等という幻想は捨てていたし、自分が、特に好きでもない人物と結婚して子をなすことに何の不満も持ってはいなかった。

 いや、不満どころか、相手が他人に干渉することを嫌う気のあるルシウスであることに、むしろ喜びさえ覚えた。夫婦になったからといって面倒事は嫌だった。その点、ルシウスとは学生時代も共にしていて気心も知れているし、多少亭主関白でも従順に従っていれば余計な口は出されないだろうと思っていた。それが彼に対する多大なる誤解であることに、私は全く気が付いていなかった。

 

 私達夫婦の日常は、特にこれといったこともなく平穏無事に過ぎていった。

 新婚の頃は(世間一般で言う新婚なんて雰囲気になったことは一度もないが)、魔法界ではヴォルデモート卿が力を強め、それこそ世間一般の魔女や魔法使いは戦々恐々として過ごしたが、彼の側についていた私達にその恐怖が襲い来ることはなかった。

 ルシウスとの共同生活も上手くいっていた。マルフォイ家の領地は広いし、そこに建てられた屋敷もまた絢爛豪華なものだった。それはつまり、滅多なことではお互いの生活領域が重ならないということで、当然の結果として生活習慣の違いなどによる不快感を感じることもなかった。

 ルシウスは掟と家訓に対しては厳格だったが、それさえ守っていれば特に口を出してくることもなかった。ルシウスは他人に干渉することが嫌いだろうと言う私の読みは見事に的中していたかに見えた。私が身ごもるまでは……。

 

 それを私が知ったのは酷い吐き気によってだった。私の中で誕生した異物に身体が拒絶反応を起こして吐き気や不快感、眩暈に襲われる。いわゆる悪阻つわりと言うやつだ。それを悟った私は速やかにルシウスに報告し、そして、乳母を雇う必要があると訴えた。

 しかし、それはルシウスの思いもよらない言葉で却下された。彼は乳母は雇えないと言ったのだ。

 信じられなかった。仮にも貴族階級である。領地も大きいし、金に困っている訳でもない。それなのに彼が口にした言葉は、『雇わない』ではなく『雇えない』。正直、理解できなかった。

 乳母を探すのは時間が掛かる。当然だ。同じ頃に妊娠した、それも身分のある女性でなければブラック家の乳母は勤まらない。早く探し始めなければ、煩わしい仕事の一切を背負うことになる。それを避けたい思いと激しい悪阻に煽られた私は、この時ばかりはルシウスに食ってかかった。

「雇えない? 何故です! それではあなたは、私一人にこの子を育てさせる気なの? そんなの不可能です!」

 半ばヒステリックに叫んだ私に、彼は予想外にも穏やかな苦笑いでこう答えた。

「しかし、これは代々マルフォイ家に伝わる家訓の一つなのだ。乳母は雇ってはならない。生まれてきた子供は必ず夫妻が協力して育てること。ナルシッサ、もちろん私もできる限るの協力をする」

 その言葉を、私は信じられない思いで聞いていた。いつになく優しく肩に置かれた手の重みが、これは現実なのだと伝えてきた。この時、私は初めてマルフォイ家に嫁いだことを後悔した。

 若くして当主になったこの男が決して自分の家の家訓を曲げないことを、私はそれまでの結婚生活で身に染みて理解していたから、なおさらだった。

 

 それから、ルシウスと私の生活領域は徐々に重なるようになっていた。

 もちろん、以前から共にする食事や会話はあったし、しとねを共にしない限り子供なんて身ごもらない。今までも共に歩くときは荷物は彼が持っていたが、私が身ごもってからはルシウスは常に私の手を引いてエスコートし、フォークとナイフよりも重いものを私に持たせようとしなくなった。

 コルセットや美しい刺繍の重いドレスは彼に禁止され、妊娠初期の頃はそれこそ多大なるストレスを感じた。しかし、六ヶ月を過ぎた頃にはシンプルな軽い絹のドレスで過ごすことに何の気兼ねもないことにむしろ感謝した。こんな言い方をしては酷だが、子供を一人腹に抱えて生活するのは大変な労力を必要とするものなのだ。

 その頃から、ルシウスは何かと理由をつけてはヴォルデモート卿の用事よりも家庭の、つまり、私と子供の用事を優先させるようになった。それまでもそうだったのだが、この頃のルシウスは卿の機嫌を損ねるギリギリのラインで踏ん張っていたらしいことを、私は後々に風の噂で聞いた。もちろん、この時の私にはルシウスのそんな気遣いに気が付くほどの余裕はなかった。

 

 そして、そろそろ出産という夜、私は恐ろしさに泣いた。子供を産むのが不安でたまらなかった。

 自分は、三人姉妹の末っ子だったし、私自身は乳母に育てられた。ルシウスは一人っ子だったし、進んで他人の家の子の面倒を見るようなタイプには見えなかった。どちらも、子育てに向いている人格とは言いがたかった。

 そして何よりも、話に聞くよりもずっと激しかった悪阻。それは、私が生まれてくる子の母親としてふさわしくないと、事前に子供に通告されていることに他ならない。

 恐ろしさと不安に押しつぶされてベッドですすり泣く私の手を、ルシウスがそっと握った。体温の低い冷たい彼の手は、妊娠が発覚してからの七ヶ月間、常に私を導いてきた暖かい手だった。何も言わずに手を握っただけのルシウスに、さらに涙が溢れる。私はいつの間に、この人に手を握られるだけで安心するようになったのだろう。そんな思いは、もれる嗚咽とともに空気に消えていった。

「……怖い、のよ。私は、親になるのが怖い……。生まれてくる子の母親が、どうして私だと言えると言うの? ただ、私が生んだと言うそれだけで……。それに、あの酷い悪阻。この子が私を気に入るはずがない。私を母親だと認めるはずがない。だから、あんなに悪阻が酷かったんだわ……」

 言葉とともに、涙も溢れた。ぎゅっと、私の手を握るルシウスの手に力がこもる。

「子供なんか、産みたくない。私は、きっと母親に向いてないのよ」

 その言葉に、ルシウスはそれまで座っていた椅子から立ち上がって、私の左手を両手で包みベッド脇にひざまづいた。そして、優しい声で言った。それは、どこか切実な響きを持って私の耳に届いた。

「いいかい、ナルシッサ、最初から生まれた子供の親である人間なんていないんだ。生まれてきた赤ん坊の面倒を必死で見て、必死で育てて、そうして少しずつ親になっていくんだ。そのための準備を、これまで私達はできる限りやってきた。特に君は、その身体の中に十月十日も、その子を宿してきたんだ。君が心配することは何もない。立派な親でないことを君は不安に思っている。でも、立派な親でなくて当然なんだ。私達はまだ、子供の顔さえ知らないんだからね」

 そう言って彼は、いたわるように私の髪を梳いた。その感触に安心して、私は静かに眠りに落ちた。そして三日後、私は赤子を産み落とした。

 

 産婆が来ていたが、彼女はお産が終わると、とっとと帰ってしまった。生まれてきた赤子に手際よく産湯を使わすルシウスを私はぼんやりとした意識の中で見ていた。お産の間中、手を握っていてくれたルシウスがほんの数メートル先とはいえ、手の届かないところにいるのが怖かった。

 何より、その両手に抱えられているものが私に恐怖をもたらした。ルシウスに大事そうに抱えられている、声の限りに泣き喚く得体の知れない物体……。

 ぼんやりと首をめぐらせて、私の目は近づいてくるルシウスを捉えた。その手に抱えられた、白い布で大事そうに包まれた得体の知れない生き物を捉えた。それをルシウスは、そっと私の腕に抱え込ませ、安心させるようにささやいた。

「男の子だ、ナルシッサ」

 腕の中で息づく確かな暖かさ。壊してしまいそうなほど儚い、その重み。

「初乳を、飲ませてやってくれないか?」

 励ますように優しく肩に手を置かれて、私は言われるがままに泣き喚くそれに乳房を差し出した。口でそれを探し当て、生まれたばかりの赤子は乳首に吸い付く。その瞬間、私の中で、何かがはじけた。

 滴り落ちる涙とともに、私はやっと確信する。ああ、この子は私達の子供なのだ。十月十日も身の内に宿し続けた、私の子供なのだ。その確信がもたらす愛おしさと安堵に、私はルシウスの腕の中で赤子を腕にむせび泣いた。長かった不安の時代が、ようやく終わりを告げたようだった。

 そんな私にルシウスは優しく微笑んだ。

「安心するのはまだ早い。ナルシッサ、闘いはこれからだ」

 そう言いながらも、ルシウスは酷く楽しそうだった。

 

 ルシウスの言葉通り、本当の闘いはそれからだった。

 赤子には大人の事情など関係ないと言わんばかりに、彼は大声を上げて泣くことに時も場所も選ばなかった。夜中だろうと、会議の席だろうと、要求があれば大声で喚いた。

 しかし、私はこの子の母親なのだという自負の前には、そんな攻撃は露ほどの打撃も私に与えることはできなかった。いや、むしろ彼が泣き喚く度に、私よりもルシウスの方が彼の要求を上手く満たすことに、軽い嫉妬さえ覚えた。

 そのルシウスは、ことあるごとに死食い人の集会に私と彼を、あるいは彼だけを伴っていき、卿を辟易させた。何しろ赤子の声は耳をつんざく様で、それを放っておくのは、いかに冷酷無比なヴォルデモート卿でさえも、うんざりさせる事のようだった。その度に会議の席を外すルシウスと私に、卿はとうとう一年間の育児休暇を与えるほどだった。

 歴代の闇の陣営の歴史を振り返らずとも、これが今までにない対処法だと言うことを私は確信した。そうルシウスに告げれば、彼は飄々と、と言うには真面目すぎる表情だったが、

「マルフォイ家の当主は、いつもこうやって休暇を取り付けてきたのさ」

 と、そう言って肩をすくめて見せた。

 

 それからの一年間は上々だった。

 確かに赤子との闘いは多大なる疲労をもたらしはしたが、私の隣にはルシウスがいて、腕の中には天使の顔で眠るドラコ(と、私達はこの子に名前を付けていた)がいた。育児以外の雑事はハウスエルフが担当し、普通の主婦が抱える夫の非協力や家事や掃除といった問題が私を襲うことはなかった。

 問題は、一年と少したった頃、ハリー・ポッターが闇の帝王を破ったときに起こった。

 ルシウスはそれまで闇の側に立っていた。彼と同じような環境で育った私は、ルシウスが闇側につくことにこれまでなんの疑問も差し挟まなかった。

 しかし、彼は卿が倒れると真っ先に魔法省と交渉し始め、その表の地位を獲得するのに躍起になった。滅多に前言を翻さない彼を知っている私には、それはとても奇妙に写った。ましてや、闇の帝王さえ納得させてずっと家庭に入り浸っているルシウスが、その時は半年近く家に帰る暇もないような奔走振りを見せていたとなれば、なおさらだった。それにドラコは、言葉とともに立ち歩きを覚えた頃で可愛い盛りでもあった。

 家に帰ってくる度に、その彼に

「としゃま、どこいってたの?」などと非難がましく見つめられ、私の疑問の視線にさらされ続け、ついに彼が口を割る気になったのは卿が倒れてから三ヶ月後のことだった。

「いいか、ドラコ、父様はお前と母様が安全に暮らせるように心を砕いているのだ」

「こぉお、くぅ?」

「ルシウス…………」

「ナルシッサ、話がある。ドラコが寝たら、二人で話し合いたい」

 ルシウスの真剣な眼差しに、私は無言で頷いた。

 

 その日の夜にルシウスが話したことは衝撃的だった。それは、今までの私の価値観を壊すには十分な重みを持っていた。けれど、それを新しい価値観に練り上げられないほど、私がルシウスと共に過ごした時間は短くはなかった。

「私の父は、ヴォルデモートに殺されたのだ。私の、目の前で……」

 そう告白したルシウスの目は、苦痛に伏せられてはいたが、その中に落胆や絶望は感じられなかった。

「父は、死ぬ数年前からそれを覚悟していたようだ。あらゆることを私が学生のうちに叩き込み、彼が死んだとき、私はマルフォイ家の当主として知っていなければいけないことは全て知っていた」

 ルシウスの話を私は黙って聞いていた。口を挟むのは賢明ではないと思われた。

「君もスリザリン生だ。我らが寮のモットーを君も知っているだろう?」

「目的を遂げるためには、どんな手段も厭わない」

「そうだ。父にとって、それはマルフォイ家だった。あの頃、と言ってもほんの数年前だが、純血でヴォルデモートに従わなかった家系がどうなったか、君も解かっているだろう」

 その言葉にも、私は頷いた。一族全て皆殺しだ。最も、純血の家系は自ら卿に賛成したやからも多い。私の姉のように。

「それでも、父自身はヴォルデモートの下につくのが許せなかったのだろう。表向きは病死ということになっているが、父は巧妙に糸を張り巡らせて、私の目の前で卿に殺された。いや、卿に自身を殺させたと言った方が正しい。父の死に際を目の前で見せ付けられて、私は父の意図と卿の意図を悟った。即ち、恐怖によって私を仲間に引き入れようとしている卿の意図と、愚かにも死ぬことで志を貫き通した父の意図だ」

「でも、あなたは……」

「そう、私は父を愚かだとは思っていない。あらゆる手段を尽くし、父が工作してきたのはマルフォイ家の生き残りだった。父は私に、これから何があっても生き残れ、お前は私と妻の希望だ、と言った。

「卑怯と言われようと、臆病者と言われようと構わない。あの時、長く伝統を保ってきた純血の家柄で、しかも代々当主がスリザリン出身となれば、生き残るには卿の元に下るしかなかった」

 その言葉を私は痛いほど噛み締めた。彼はどれほど自らの父のように卿に楯突きたかったことだろう。それでも、彼は父の希望のため、臆病者の誹りを受けてまで、卿の元に下ったのだ。

「そして、今度は卿が倒れた。私は今、マルフォイ家の地位を築きなおすのに必死だ。もう少し、待っていて欲しい。そして、ナルシッサ、お前には覚悟を決めて貰いたい」

 彼が、マルフォイ家と言うとき、その言葉が指すのは私とドラコのことだ。血筋でも、家柄でも、領地のことでもない。そこに確かにある、何をかけても守りたい、家族のこと。

「恐らく、卿は死んだわけではない。卿が復活したとき、それが私達にとって最も難しい時代になる。それが、一年後か、十年後か、はたまた私達がまだ十分闘える年齢の内なのかはわからない。それでも、私と共に、この家を守っていけるか?」

 卿が復活したとき、私達は卿と魔法省の間で板ばさみになる。その綱渡りのような関係を無事に渡りきるのは至難の技だろう。きっと、裏切り者の誹りを欲しいままにできる。

 緊張した様子で、いっそ睨んでくるような勢いのルシウスに、私は優雅に微笑んで見せる。

「あなたは私を、一体誰だとお思いになって? 私はあなたの妻、スリザリン出身のナルシッサ・マルフォイよ。この家を守るためなら、どんな手段も厭わないわ」

 そうよ。あなたと、ドラコを守るためなら、どんなことにも耐えてみせる。だって私は、マルフォイ家の一員ですもの。卿の純血主義よりも信じるものが、守りたいものがあるの。

 強気に言い放った私を、ルシウスは力強く抱きしめた。自然と二人の唇が重なる。

 ねぇ、ルシウス。結婚したときには、あなたとこんな風に唇を重ねるなんて、想像もできなかった。こんなにも愛しい人が二人も手に入るなんて、考えてもみなかった。あなたとの結婚生活はもっと淡々として、冷め切ったものになると思ってた。まさか、形振り構わず守りたい人が私にできるなんて、一体誰が想像できたと思う? あなたにはできていたのかもしれないわ。でも、私を含めてみんな、こんなこと夢にも思わなかった。私がこんな、夫と子供の為に命を捨てられる女になるなんてこと。

「愛してるわ、ルシウス」

 ささやいた私に、ルシウスは微笑んだだけだった。それで、私には充分だった。

 

 『好き』になった人はいないでもなかった。
でも、それは吹けば飛ぶような、あやふやで不確かな感情だった。

 『恋』に落ちたことなんてないわ。
落ちる前に、全てをあきらめていたから。

 『愛』なんて、自分には関係ないと思ってた。
だって、私は恋さえしたことがないのだから。

 でも、『愛』は芽生えた。
私と、あなたと、私達の子供の間に、確かに愛は芽生えた。

 それはゆっくりと、けれど確実に私を侵食し、ついにはこんなにも私を変えてしまった。
私は、この家を愛しているわ。あなた達二人を、愛しているわ。

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