・最終的に生殖を目的としない信頼関係を肯定させてくれた、やおいと言う装置

やおい論を読むのが結構好きだ。と言っても、冊数的に多くの本を呼んでいるわけではないのだが。例に漏れず、私も思春期の入り口に立った中学生の頃にやおいにハマり、もっぱら二次パロを中心に読んできた。

やおい論の中で、中心的な疑問になる部分に、少女が好む物語が「なぜ男同士なのか」があると思う。そして、それは女性性の忌避と言う形で説明付けられることが多い。私も、そう言った部分が多分にあると思う。

思春期の少女がかかりやすい病の一つに、拒食症がある。拒食症とは、女性性を徹底的に排除しようという試み、と説明している研究者さんがいて、なるほど、と思った。

その研究者さんはこのように説明していた。『拒食症というと「痩せたい」願望が原因として語られるが、もう一段深い「なぜ痩せたいのか」には「女性の象徴である丸みを帯びた身体が嫌だから」という理由がある。拒食症の女性はボーイッシュな服装をしているまたは中性的なセルフイメージを持っている場合が多い。そこにあるのは、女性の身体への忌避である』と。

やおいに置ける女性性の忌避というのは、この拒食症の場合の忌避と、とても近いものがあると私は感じた。いわば、二次性徴を迎える自分の身体への違和感だ。

それまでの中性的なただひょろひょろしただけの身体が、胸が膨らみ腰回りに肉がつき、柔らかな女性的なものへ変わっていく事に少女は(いや、私は、か?)違和感を覚えずにはいられない。そして同時に気づく。それは子どもを生むための変化であり、男を性的に欲情させるための変化であり、自分の身体が商品として切り売り可能になる変化である、ということに。

それに対して、徹底的に抗おうとするのが拒食症であり、目を背け逃避しようとするのがやおいであるように思う。

なぜ、やおいが逃避になるのか。そこには、「異性である」という理由で欲情される性が存在しないからだ。やおいにおいて性的客体として欲情されるのは男性であり、女性ではない。しかも、性的主体も女性ではない。百合は主体も客体も女性である。

なぜ女×男、あるいは女×女では、ダメなのか。それは、少女が自身を『女』にカテゴライズする事そのものに戸惑っている状態だからだ。物語の中心が男女であれば、少女は感情移入の装置として女性を選ばざるを得ない。それは女性同士であっても同じことだ。少女は、自らが感情移入することを選んだ女性に同一化しなければならないことを無意識的に感じ取っている。

しかし、自身の規範意識、こうありたいというモデリングを素直に女性に託すのは違和感がありすぎて心地良くない。

やおいの関係性には女性は登場しない。そこに一種の逃避がある。つまり、女性はこうあるべきという、物語を通して語られる女性のモデルケースが存在しない、という逃避である。モデルケースが存在しないのだから、少女がどういった生き方をするべきか、どういう選択をすることが正しいのかは、物語上語られることは決してなく、すべての選択肢が彼女に対して開かれている。

・関係性を恋愛と読み替える遊び

二次創作におけるやおいは、ある二人の関係性を恋愛関係に読み替える遊びだ。友情、ライバル、憎悪、あるいは、目があっただけとか、同じコマにいただけでも、妄想の対象になる。

しかし、遊びは所詮、遊びだ。

やおいフィルターというのは、フィルターなので簡単に取り外し可能であるし、付け直すこともできる。フィルターを通すことで恋愛関係に読み替えた二人が、フィルターを通さなければ普通の友人関係であることを私は熟知しているし、熟知しているからこそ萌えるのである。

私がオリジナルBLに萌えない理由も、まさにここにある。最初から恋愛関係を目指して進む物語ではダメなのだ。あくまで、『本来の関係』があって、それを『恋愛関係と読み替えること』が私の場合のやおい萌えなのだ。

・男女カプものが読めなかった時期

思春期の一時期、それこそやおいとハマる時期と相前後して、男女カプものが一切読めなくなった時期があった。なんとなく、気持ち悪いのだ。

男女の恋愛の場合、一つのゴールとして妊娠出産がある。その妊娠出産という行為に繋がるもの全てが、欺瞞的に思える時期があった。妊娠出産、と言うよりも『子育て』と言うのは、究極の利他行為であると同時に、究極の利己行為である。

つまり、『自分の子ども』という別人格のために尽くす行為の目的は、自らの遺伝子を残すための行為であり、なぜ遺伝子を残すのかといえば、死にたくないと言う、生物的な本能への単純な反応なわけである。おまけに、女性の場合、妊娠出産という行為は正に心身を捧げて尽くすと言っていいものであるのに対し、男性の場合、その(精神的な負荷は男性の人間性により様々だが、)身体的な負荷は限りなく軽い。共同作業なんてちゃんちゃらおかしいくらいに軽いのである。

そう考えた時に、『子孫を残す生物的な本能』に裏付けられた男女恋愛のなんと薄っぺらいことよ。男女恋愛は子孫を残すための戦略的な生理反応であり、愛を囁くのは生殖をするためであり、相手人格の人間性とか、尊厳は二の次、三の次であると、感じられた時期があった。

まあ、実際に女性を自分の世話を焼いてくれるアクセサリーとしか認識できない男性も中にはいるようだが、そう言った父権主義の犠牲者は少数派になりつつあるようだ。

・やおいフィルターを外してみると

昔、『蜜の厨房』というサイトがあって、そこでよしながふみさんの対談を引いて、こんなことが書かれていた。『最終的に生殖を目的としない男女間の友情がありえるのなら、それはやおいかもしれない』

私はこれを読んで、なるほど、と思った。

やおいフィルターはフィルターなので、取り外し自由な変換装置である。それは主に『男同士の友人関係』を『恋愛関係』に読み替える事に使用される。しかし、やおいフィルターはカメラに取り付けられる偏光フィルターのようなものなので、使用者が好んで選ぶ被写体が男同士と言うだけで、それは女同士にも使用できるし、男女にも使用できる。やおいフィルターは本来『あらゆる関係性』を『恋愛関係』に読み替える装置だ。

そして、男女恋愛に対してやおいフィルターを取り外すと、通常『男女の恋愛関係』として読み替えられているものを『男女の友人関係』に還元することができるのだ。

生物的なヒトの恋愛賞味期限は三年間であるという。恋に落ちて三年間は脳内麻薬物質の作用で、熱に浮かされたような恋をする。

しかし、三年を過ぎた後の関係には生物的な援助は受けられない。恋愛開始と同時に子どもを作っていれば乳児期から幼児期へ移行しており、親の手を徐々に離れ始める。カップルは番(つがい)である必要がなくなり、動物であればパートナーは解消される。

結婚三年目に離婚・浮気が多いのはこのためであるし、カップルにとって付き合って三年目が鬼門であるのもこのためだ。

『生殖のための恋愛』という生態的要素が取り払われたあとに残るのは、二人の間にあるパートナーシップのみである。離婚してカップルを解消する夫婦もいるし、なお手を繋いで共に老いていく夫婦もいる。残されたパートナーシップは、同性同士の間に培われるフレンドシップとさしたる違いはないように思う。

それを、私に実感として教えてくれたのが、やおいフィルターという装置だった。全ての二者間(多者間)にある関係性を一度『恋愛関係に読み替える』ことによって、集約・凝縮し、萌えによって細分化する。

その後に再度フィルターを外して見ることによって、細分化された萌え(関係性)を『それぞれの関係性』として落としこむ。それは、友人関係だったり、ライバル関係だったり、憎悪しあう関係だったりするが、光のスペクトルと同じように、同じ関係性の名前が付けられていたとしても個別のケースによって、その色相が違うことを一度全てを恋愛関係と読み替える遊びによって私はすでに実感として掴んでいる。

恋愛関係だって関係性の一つに過ぎず、フィルターを外してしまえば、友情で成り立っている部分もあれば、ビジネスライクな信頼関係で成り立っている部分もある。

お互いに相手を尊重できるもの同士であれば、やおい的関係(やおいフィルターが活躍するような関係。つまり、恋愛関係に読み替え可能な(=恋愛関係ではない)関係性)を築くことは性別に関係なく可能なのである。

性別に関係なく『やおい的な関係』を築くことは可能だ、と思えた時、私の男女カプものへの苦手意識は解消された。男女だからと言ってその関係が恋愛関係に限定されるべきものではないし、同性だからと言って恋愛関係が禁止されるべきでもない。

性別に関係なく、と言うのは、やおいの一つの命題だ。やおいの定型パターンに『お前が男だから好きになったんじゃない』というセリフがあるが、これは別にホモフォビアでこう言っているわけではない。

やおいフィルターの被写体に選ばれるのが男性同士が多いから、こうなるのであって、別に『お前が女だから好きになったんじゃない』でも、全然構わないのだ。

このセリフは、男性である/女性であることの前の、一個人としての『お前』を好きになったんだと言う意思表明であり、そういう意味で、やおいは性別から自由である。何しろやおいフィルターは、あらゆる関係性を恋愛関係に読み替える変換装置であって、そこには当然、様々な性別間の関係性も含まれているのだから(世の中には擬人化(そもそも性別がない)や男体化というものもある)。



2014/03/15


そういえば、思春期の女の子がやおいに嵌まる理由は上記の『女性性からの逃避』が大部分だと思うけど、「じゃあ、現状やおいを愛好している人は全員女性性から逃避しているのか」というと、それは違うと思う。

と、言うのも自分の場合がまさにその状態で、男女カプものが読めるようになったのと相前後して、自分が女性であることを素直に受け入れられるようになった。女であることが嫌でないし、たぶんバイよりのヘテロなんだと思う。恋人できたことが無いから確信はないけど。絶賛恋人募集中。(※2016/06/01 むしろパンセクシャルとかアセクシャルになるのかな? 好きな人の性別なんてどうでもよくね? 恋人いなくても何も困らなくね?)それでも、私はやおいに萌えるし、腐女子であり続けている。

では、その理由は何故かというと、本当に端的に身も蓋もなく、あけすけに言ってしまうと、その理由は『自分が気に入った男が突っ込まれて、あんあん喘いでいる姿を見たいから』だ。

実際問題として、これってやおい以外での実現って、まだ結構難しい領域だと思うんだよね。『触手攻め』は、受けが男性ならやおいの分類に入るし……。

性欲の対象は『男性』なので『女×女』である百合は論外だ。男女カプものだと、圧倒的多数を誇る『男×女』の前に『女×男』はないに等しいような感じだし。いや、あるのは知ってるよ! でも、数が少ないのは確かだし、なんとなく『女×男』では、萌えるに至る前に感覚的にしっくりこない、違和感が強いことがほとんどなんだよね。自分で書けばいいじゃんって言われれば、そうなんだけど、なんかしっくりこないんだよ。しっくりくるロールモデルを想像・創造できない。

逆に言えば、『攻めな女性』のロールモデルがもっと多様化して、各人がノれる『攻め女性』の開発が進めば、思春期過ぎたら腐女子から足を洗う人が今よりも増えるのかもしれない。そして、現実の男女間にも、さらに多様な関係性がもたらされるのかもしれない。

今のとこエロ界隈の男女カプでジャンルとして確立されてる『男性受け』って『おねショタ』『女王様×M男』くらいしかない気がして……。この二つならまだ『ふたなり彼女×彼氏』のが、私の性嗜好としては親和性がある。やっぱり、今の時代ではまだ『攻め』に男性器が必要不可欠ってことなのだろうか……。

あ、でも『攻め女性』のロールモデル開発って意味だと百合の発展がその境地を開いていく鍵になるのかもしれない。

2016/04/22


・関係性を『読み替えている』のか、それとも『暴いている』のか

最近、スマホゲーで初めてBLゲーに触れているのですが、なんかオリジナルBLに食指が動かない理由がわかったような気がします。

一番大きな理由は、私が逆王道が好きだからなんですけど、これは前からわかっていました。主人公は総攻め! 男前で度量のある方が受け! 背の低い方が攻め! まあ、この辺の嗜好っていうのは、探せばないわけじゃないのはわかってるんですが、(自分の萌えるカプ作品を)探すのが大変だろうという予想が付いていたので、あえて手を伸ばしませんでした。

それとは別に、もう一つ、どうやらかなり重要な萌えポイントがあったことを今回改めて発見しました。それが、『恋愛以外の関係性が成立している』こと。これが二次パロなら問答無用で成立していることが保証されるけど、オリジナルではそうではないです。当たり外れがある。これ、私にとっては男女カプものでも同じみたいです。

で、やおいの話題なんですが、BLゲーを例にとっても分かる人が少ないと思うので、あえて有名作品を例に取りたいと思います。というわけで、ハリポタを例に取ります。安心して下さい。例に取るのは、公式の男女カプです。私が萌えたカプと萌えなかったカプです。具体的に言うとハリジニとロンハーです。

私、ロンとハーマイオニーにはめちゃくちゃ萌えましたが、ハリーとジニーには余り萌えませんでした。当初はロンハーがかなり時間をかけて成立したカップルであることに対して、ハリジニはあまり時間をかけずに成立したカップルなので、そのせいかなと思っていたんですが、どうやら違ったようです。

そもそも、ジニー側からしてみれば入学前からの片思いを叶えたわけですし、『時間がかかってない』というのは、必ずしも当てはまりません。それに、ロンハーの『時間がかかった』もハーマイオニー(ハリー)視点の描写であって、ロン視点では違います(厳密には言い切れない部分もあるけど、とりあえず違います)。

・恋愛抜きでも成立するロンハー、恋愛抜きでは成立しないハリジニ

ハリポタの主人公はハリーですが、冒険の中心になるのはハリー、ロン、ハーマイオニーのグリフィンドール三人組です。当然ながら、この三人組は『恋愛感情抜き』の関係性が成立しています。三人一緒じゃなくても、ハリーとロン、ハリーとハーマイオニー、ロンとハーマイオニーの二者間でも『友人関係』がはっきりと成立しているわけです。

ひるがえって、ハリジニは『恋愛感情抜き』の関係性が成立していないんですよね。ハリーにとって恋愛感情抜きのジニーは『ロンの妹』であり、ルーナやネビルと同じカテゴリに入っているんですよ。物語的には、その他大勢のモブに近い立ち位置です。

ジニーはクィディッチがかなり(プロ選手になるほど)上手いし、ハリーの代わりにシーカーに抜擢されて活躍しているので、この辺の(嫉妬含む)ライバル関係だったり、ホグワーツのレジスタンスのリーダーとしてハリーと信頼関係を築いてくれたりしたら(残念ながら、この役どころはネビルが持って行った)、かなり萌えカプになったと思うのですが、そういうのはありませんでした。

つまり、「恋愛以外のところで二人はどういう関係なのか」ってのが重要なのです。恋愛以外でっていうのは『性的対象として』(ちょっと語弊があるけど、要は「男として」、「女として」ってこと)ではなく、『人対人』『私とあなた』としてどういう関係を築いているのか、ということです。

ここで思い出して欲しいのですが、私にとって「やおい」とは『恋愛抜きの関係性』を『恋愛』と読み替える遊びです。つまり、『恋愛抜きの関係性』があるロンハーはやおい的恋愛ですが、『恋愛抜きの関係性』がほぼないハリジニはやおい的でない恋愛なのです。そして、ハリジニ的な(=やおい的でない)恋愛も世には溢れていて、日本ではむしろ主流な気さえします。

で、なんで今回わざわざ筆を執ったのかというと、やおいはもしかして関係性の『読み替え』をしているのではなくて、『暴いている』部分が大きいのではないか。そしてそれが、最近激しい腐叩きの一因なのではないか、と思ったからです。つまり、ロンハーがやおい的な恋愛であるとすると、やおいが『恋愛抜きの関係性』を『恋愛と読み替えている』のではなくて、『恋愛抜きの関係性』の中に潜む『恋愛的感情を暴いている』とも言えるのではないか、と思ったわけです。

なんでこんなこと言うのかって言うと、私にとっては女同士の友人感情でも『嫉妬』や『独占欲』があり、それは極めて『恋愛感情』に近いものだと思うのです。この辺の愛情や淡い嫉妬ってのは、『戦と災厄の運び手』五、いにしえの海岸とか、十二、理由とかのアングルボダ→シギュンの感情がそれです。(『戦と災厄の運び手』で、この二人は百合として成立するように書いています。)

元々、百合って少女向けのラノベ(ヤングアダルトレーベル)から出てきたジャンルですが、これって要するに女性としては同性同士のこういった『恋愛よりの友情』が抑圧の対象外であることを示してるんじゃないかな、と思うわけです。それに対して、男性として「ホモソーシャル」な社会に所属している人たちにとっては、この『恋愛よりの友情』は極めて強く抑圧されているように思います。

「ホモソーシャル」が成り立つためには「ホモフォビア」が欠かせません。男同士の関係は『友人関係』に限定され、その為に男同士の『恋愛関係』は徹底的に排除されます。(ついでに男女間の感情は『恋愛感情』に限定され、女同士の『友人関係』は成立しないことになっています。)ビアンよりもゲイ差別が激しいのも、社会のほとんどがホモソーシャルで成り立っていて、かつ女は初めからホモソーシャルに所属できないために対象外であるのに対し、ゲイはホモソーシャル内の異分子のため「ホモソーシャル的な価値観(=男同士の間には友情しか成立しない)」を危機に陥れる存在であるからです。

おそらく(私は男ではないので想像ですが)男性同士の間でも抑圧されているだけで、百合的な『恋愛よりの友情』、友情の中の『恋愛的感情』は存在しているのではないでしょうか。そして、「やおい」は『男同士の関係は全て友情である』としてホモソーシャルが覆い隠して誤魔化している『恋愛的感情』を暴き立てる装置に成り得るわけです。これはホモソーシャル的な価値観への攻撃です。男性が百合(GL)よりもやおい(BL)に嫌悪感を持つのは、「自分たちの価値観が攻撃されている」と感じるからではないでしょうか。

あとは単純に、男性は自分が『性的客体』として見られることに慣れていないから、客体にされることへの反発もあると思います。これは男性向けエロや萌系に女性から向けられる嫌悪感と同じものですね。きっと誰だって本質的に、性的客体にされるのは嫌なのです。だから、これはゾーニングで対応するしかないと思います。腐向け叩くなら、セクシー系も萌系も、もっと隠れるべきだと思いますよ。男のエロは垂れ流されすぎ。

自分が学生だった頃よりも腐叩き増えたよなぁと思って書いてみました。昔は(って言っても、もうネットもBLレーベルもいっぱいあった時代だけど)、最近みたく骨髄反射的に腐叩きする男オタクって居なかった(目に入らなかった?)のに、ここ数年の腐叩きの激しさは一体何なのだろうか。オタクがカジュアル化して男オタも女オタもぬるい人が増えたのか、腐女子が世間的に認知されるようになったのが原因なのか。個人的には、いずれホモソーシャル社会が解体されて男女仲良く友情を育める世界が来ることを願っております。

2016/06/28


あんまり関係ないけど、呟き場所に迷ったから、ここについでに書いておく。

最近思ったのだが、オネエで性的指向が男性の人ってホモセクシャル(同性愛)じゃない気がするんだが。彼女たちってトランスジェンダー(MtF)の異性愛者だよなぁ、と。だから、オネエをゲイって言うのって違うんじゃないの?と思う。

ゲイって性自認が男の人が男性を好きになるってことだと思うのだが。オネエって性自認は女だよね? だったら、オネエのホモセクシャル(同性愛)だったらビアンじゃないのか、と思う。

それに加えて、オネエタレントの台頭をもって、日本ではゲイの人達が世間に受け入れられている、と考えるのは違うんじゃないか、と違和感を覚えるのだけど当事者としては、そこに違和感はないのかな?

まあ、私はおこげじゃないし、ゲイ文化の中でのオカマというか、オネエの立ち位置ってよく知らないから全然的外れなことを言ってるのかもしれない。

2016/06/01

戻る inserted by FC2 system