しかし、日本は違う。ここでは神話は切実に歴史とつながっている。神の血を引く人があまりにうようよしている。
こういう文章を読むと胸が躍る。「我々の踏むこの大地こそが神話の舞台であり、我々の経験することこそを後世の詩人たちが伝説として織り上げるのだ
」というのは指輪物語のアラゴルンの談(記憶頼りに書いているのでセリフは曖昧)だが、まさにその神話の大地に生きているのが我々日本人であるわけだ。これって、ものすごいロマン溢れる事実だよね。
かつては、どこの国でもそうだったものが、日本でだけ生き残っている。いや、実際外国で意識調査をしたことがないから正確なことは言えないが、海外でもヘラクレスの子孫やヘイムダルの子孫を自認する人はまだいるのかもしれない。でも、先進国で神の御子が政治的に対外的にも未だ重要な地位を保っているのは日本だけなんだよなぁ。
そして、よくも悪くも、この「日本神話が現実と切実に繋がっている」が故に、学者の目を曇らせているというのが著者の意見だ。
学者たちは記紀神話を「政治宣伝文」とみなし、「神話」として捉えることができていない、という批判は本書で何度も繰り返される。あまりに現実と繋がっているので、現実と接続している「神話」として見ることに拒否反応が出ていると言うのだ。
日本神話が「神話」であることの証明に、著者は世界の他の類型神話を引いてきて比較することも多いのだが、その中でも特にイザナギ・イザナミの黄泉の国神話と、ギリシャ神話のオルペウス・エウリュディケの神話の比較は大変興味深かった。
オルペウス型と呼ばれる神話類型(死者を黄泉の国へ取り返しにいく神話)は世界中に無数にあるらしいのだが、それが物語の順序合わせて、ここまで一致しているものは他に類を見ないらしい(そういえば、北欧神話でもバルドル殺害話の後半部分はこの類型の変形と言えそうである)。
オルペウス型の条件は、�@妻に先立たれた男が�A妻をとり戻す目的で冥府におもむく、というものらしい。成功する例も多くあり、タブーとされるものも見るなのタブーではなく、帰っても妻を虐待するなとか、妻と口を聞くなとか、様々あるらしい。
著者は物語の条件を六項目(一、妻が、事故で死ぬ。二、激しく泣く。三、男が一人で冥府に行く。四、ヨモツヘグイがある。五、「見るな」のタブーをおかす。六、失敗する)に分けて確率を導き出しているが、その確率は三万二千四百分の一! ここまで一致していると、なにやらギリシャ神話との縁に感じる物があるが、不思議なのはギリシャと日本と距離的にこれだけ離れていて途中の伝播ルートにこれほどまでに一致する神話が見られないことだ。
※2014/02/28追記 参考までにバルドル殺害話の後半部分をこの六項目(一の項目が「誰が」「なんの要因で」なので、七項目の気もするが)に分けてみると、(一、主神の息子が、殺される。二、葬式をする(妻は胸が張り裂けて死ぬ)。三、兄弟が(冥府と行き来できる)馬に乗って冥府に行く。四、ヨモツヘグイはない。五、「見るな」のタブーはない(代わりに「世界中のものがバルドルのために泣くのなら生き返らせよう」と約束される)。六、失敗する)となる。うん、同じように蘇りを扱った話だけど、凄く違うね。
これは別の本で得た知識だが、日本神話は南方海洋系神話(ポリネシアとか)との類似が強く(オオゲツヒメや浦島太郎の竜宮伝説など)、そちらルートで地中海から渡ってきたのだろうが、その伝播ルートにこれほど一致する物語が見られない(あれば当然紹介されている)。洋の東西で偶然起こった一致なのか、他の理由があるのかさだかではないが、ロマンである。
本書は、ここでは他の神話学の本に譲るとして結論は出さないが、具体的な数値を出されたのは興味深かった。
話が散漫になったけれど、読んでいて「なるほど」と思える本だった。天津神と国津神の対立でエシールとヴァン神族の対立が引き合いに出されていたけれども、そう考えると北欧でも日本でも民族的な戦いがあったゆえにできた神話ではないとなるし、神話を神話としてみるという視点を確認するのに良い一冊だと思う。
(日本の国譲り神話は民族間の対立の歴史の反映とされてきたし、北欧のエシールとヴァン神族の対立は異なる二つの宗教が争った結果の反映とされてきた。それがどこにでも発生しうる神話の類型の一つであるならば、それぞれは「歴史的事実の反映」ではなくて、他の思想的、集合的無意識など原型の反映として見てみる必要が出てくる。)