歪められた日本神話 荻野 貞樹

同書の「はじめに」から引用
彼ら(学者)に共通した認識は、いわゆる記紀神話の記述は全部、なにかほかのことを述べたことだということにある。まったく別のことを、わざわざあのように書いたと言うのである。例えば高天の原とあればこれは征服者の軍事基地だという。八岐大蛇とあればこれは川の氾濫だという。国譲りとあればこれは古代の内戦だといい、天孫降臨とあればこれは外人の漂着だという。
誰か神さまが現れて、泣いた、喧嘩した、結婚した、とちゃんと書いてあっても、学者たちは決してこれを、その神が泣いた、喧嘩した、結婚したとは読まない。なにか別の話だというのである。
この種の見方は、紀元前のギリシアあたりではけっこう気のきいたものだったようだが、平成の日本ではそろそろやめていいのではないか。
高天の原は高天にあったのである。八岐大蛇は八頭八尾の大蛇だったし天孫は天から降臨したのである。神が結婚したならそれは結婚したのである。文字さえ読めるならば、そこになんの疑問もあるまい。私は本書にひたすらそのことを書いた。こんなに単純な本はめったにないだろう。
内容としては、日本神話の学会のいわゆる通説と言われるものへの痛烈な批判。神話で語られる物事を現実の事実の直接的反映とする説を、ギリシア・ローマ時代の昔からある古典的、伝統的な見方であり、現代に生きる日本の学者たちはそろそろ縄文・弥生時代の理論から抜けだしたほうがいい、と批判する様は強烈。
※2014/02/28追記 これは最近、ヘイムスクリングラを読んで猛烈に筆者に同意した。散文のエッダを残しているスノリはともかく、サクソなんてこれ系の作者の典型例で、しかも十三世紀の人。サクソがデンマークの神話を神話として残してくれなかったことが非常に悔やまれる。日本人は未だにサクソと同じことをして喜んでいる鎌倉時代で頭が止まっている学者の方が多いということか……。
学者の日本神話の読み方への批判テキストなので、それ系の(研究書的な)本を一読しているのが前提。さらに面白く読むなら、それ系の理論に違和感を持っていると尚更よい。
八岐大蛇退治は治水工事の暗喩という説も私は好きだが、そういった何らかの暗喩を「具体的なある特定経験の暗喩」としてしまうのは、確かにロマンがないとも思う。神話として語り伝えられるとき、そういった経験は特定の経験の反映ではなく、個々の経験が互いに乱反射して神話に妙なリアリティを付与しているものだと思う。怪談話が、「友人の友人の話」として語られるような感覚と近いというか。私は、そういった感覚に造詣があるわけではないので深く立ち入ることは遠慮しておく。
しかるに日本の神話は、事件は時間的・因果的に連続し、神話のすべての中心人物が天皇及び少数氏族の遠祖として設定されている。そして日本神話では、神界の事件がそのまま現実の人間世界に接続している。(中略)
しかし、日本は違う。ここでは神話は切実に歴史とつながっている。神の血を引く人があまりにうようよしている。
こういう文章を読むと胸が躍る。「我々の踏むこの大地こそが神話の舞台であり、我々の経験することこそを後世の詩人たちが伝説として織り上げるのだ」というのは指輪物語のアラゴルンの談(記憶頼りに書いているのでセリフは曖昧)だが、まさにその神話の大地に生きているのが我々日本人であるわけだ。これって、ものすごいロマン溢れる事実だよね。
かつては、どこの国でもそうだったものが、日本でだけ生き残っている。いや、実際外国で意識調査をしたことがないから正確なことは言えないが、海外でもヘラクレスの子孫やヘイムダルの子孫を自認する人はまだいるのかもしれない。でも、先進国で神の御子が政治的に対外的にも未だ重要な地位を保っているのは日本だけなんだよなぁ。
そして、よくも悪くも、この「日本神話が現実と切実に繋がっている」が故に、学者の目を曇らせているというのが著者の意見だ。
学者たちは記紀神話を「政治宣伝文」とみなし、「神話」として捉えることができていない、という批判は本書で何度も繰り返される。あまりに現実と繋がっているので、現実と接続している「神話」として見ることに拒否反応が出ていると言うのだ。
日本神話が「神話」であることの証明に、著者は世界の他の類型神話を引いてきて比較することも多いのだが、その中でも特にイザナギ・イザナミの黄泉の国神話と、ギリシャ神話のオルペウス・エウリュディケの神話の比較は大変興味深かった。
オルペウス型と呼ばれる神話類型(死者を黄泉の国へ取り返しにいく神話)は世界中に無数にあるらしいのだが、それが物語の順序合わせて、ここまで一致しているものは他に類を見ないらしい(そういえば、北欧神話でもバルドル殺害話の後半部分はこの類型の変形と言えそうである)。
オルペウス型の条件は、�@妻に先立たれた男が�A妻をとり戻す目的で冥府におもむく、というものらしい。成功する例も多くあり、タブーとされるものも見るなのタブーではなく、帰っても妻を虐待するなとか、妻と口を聞くなとか、様々あるらしい。
著者は物語の条件を六項目(一、妻が、事故で死ぬ。二、激しく泣く。三、男が一人で冥府に行く。四、ヨモツヘグイがある。五、「見るな」のタブーをおかす。六、失敗する)に分けて確率を導き出しているが、その確率は三万二千四百分の一! ここまで一致していると、なにやらギリシャ神話との縁に感じる物があるが、不思議なのはギリシャと日本と距離的にこれだけ離れていて途中の伝播ルートにこれほどまでに一致する神話が見られないことだ。
※2014/02/28追記 参考までにバルドル殺害話の後半部分をこの六項目(一の項目が「誰が」「なんの要因で」なので、七項目の気もするが)に分けてみると、(一、主神の息子が、殺される。二、葬式をする(妻は胸が張り裂けて死ぬ)。三、兄弟が(冥府と行き来できる)馬に乗って冥府に行く。四、ヨモツヘグイはない。五、「見るな」のタブーはない(代わりに「世界中のものがバルドルのために泣くのなら生き返らせよう」と約束される)。六、失敗する)となる。うん、同じように蘇りを扱った話だけど、凄く違うね。
これは別の本で得た知識だが、日本神話は南方海洋系神話(ポリネシアとか)との類似が強く(オオゲツヒメや浦島太郎の竜宮伝説など)、そちらルートで地中海から渡ってきたのだろうが、その伝播ルートにこれほど一致する物語が見られない(あれば当然紹介されている)。洋の東西で偶然起こった一致なのか、他の理由があるのかさだかではないが、ロマンである。
本書は、ここでは他の神話学の本に譲るとして結論は出さないが、具体的な数値を出されたのは興味深かった。
話が散漫になったけれど、読んでいて「なるほど」と思える本だった。天津神と国津神の対立でエシールとヴァン神族の対立が引き合いに出されていたけれども、そう考えると北欧でも日本でも民族的な戦いがあったゆえにできた神話ではないとなるし、神話を神話としてみるという視点を確認するのに良い一冊だと思う。
(日本の国譲り神話は民族間の対立の歴史の反映とされてきたし、北欧のエシールとヴァン神族の対立は異なる二つの宗教が争った結果の反映とされてきた。それがどこにでも発生しうる神話の類型の一つであるならば、それぞれは「歴史的事実の反映」ではなくて、他の思想的、集合的無意識など原型の反映として見てみる必要が出てくる。)


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